February 09, 2011
昔の少年との葛藤
昨日練習で練習試合での課題感を前向きに捉え練習に励んでいるみんなを見て嬉しくなった。
限られた時間の中でやれる事をやろうとしているみんなは前向きだった。
そして先日負傷し、靭帯断裂の診断をされた直也の小指は真っ青だった。
ノブからの参入戦は諦めろというメールに対して『なめんな!』と返したそうだ。
練習後、昨日来れなかった同じく第2、第3腰椎横突起骨折と診断されたタケシに電話してみた。
『痛みがひいたらやります、参入戦には間に合わせますから。』と。
葛藤。
すごく頼もしい言葉だし、出来ればみんなを使って戦った方が勝つ為の手段を考えれば尚良い。
だけどその先何かあった時に責任は取れない。長い目で考えれば人生すら左右する。
気持ちに応えてあげたい部分と勝つ為の確立を上げたいのはもちろん。
多分今までの自分だったら彼等を使う。
きっと関東参入という手段の確立を自分は優先で考えてしまう。
だけど怪我で人生が変わった人を一番良く知っているのは誰でもなく自分だった。
私は前にも書いたけど小学校2年生でサッカーを始め、毎週月曜日だけが休みというサッカー尽くしの小学生生活を送っていた。
当時はゆとり世代ではなくそれはそれは厳しい練習ばかりで自分を追い込んだ。
母親は何度も止めればと言った。
だけど逃げるようで嫌だった。
だから走り続けた。
お陰で身体は小さかったけど走れる選手で町のマラソンや校内マラソンでは1位、2位は常に取っていた。
短距離でも校内の指定生徒に選ばれた。
技術はそれほど無いけれど小さい身体で良く走ると言われていた。
でも小学校6年の時に足の大腿骨に違和感を覚えはじめた。
最初の診断では異常無し。
だからまだ練習を続けた。
夏の読売ランドを目指す全日本少年サッカー大会群馬県予選。
試合中に急に走れなくなった。
気付いたら足を引きずって動けない。
途中欠場。
再び医師の診断を受けると『大腿骨骨頭滑り症』。
成長期前の過度な足への負担が原因だった。
小学校6年生にして手術。
栃木県下野市の自治医科大学病院に3ヶ月入院。
1年間マツバ杖生活。
母親は無理を止められなかった自分の責任と言って泣いた。
車で2時間もかかる病院なのに毎日お見舞いに来た。
初めて母親の涙を見たのはこの時だった。
医者からは3年間の運動を止められた。
中学3年間は体育の成績は2。
サッカーから離れた部活に属し、しかもただ見ているだけ。
そして中学3年で再び手術し入院。
高校に入って軽度の運動は許されたがもう気持ちが腐っていた。
その子のサッカー人生は小学校6年生で終わった。
今となっては後悔は自分自身無いけれど母親の初めての涙だけは今も忘れられない。
周りの親にも『なんで途中で止めさせなかったの?』と言われた事も自分の息子にメスを入れる事になってしまった事も母親は色々と自分を責めたらしい。
そんな事になって泣きたいのは俺だったけど泣くと更に母親が泣くのが辛くて耐えてた。
親父も『手術なんてさせてたまるか!』と俺を背負って病院、整体、針、色々な療法を試みる為に走り回ってくれたが結局ダメだった。
自分には後悔が無いけれど親父の気持ちに応えられなかった事は残念だ。
最後は一人でトイレにも行けなくなって諦めて手術になったからね。
今自分も親になって気持ちが分かる。
最後は選手の気持ちに任せたいと思う。
無理をしてでもなんとか頼むとは言えない。
きっと戦える選手だけでも結果を出せる!
みんなを信じて自分の気持ちを整理してみんなで勝ち取ろう。
初戦まであと9日。
限られた時間の中でやれる事をやろうとしているみんなは前向きだった。
そして先日負傷し、靭帯断裂の診断をされた直也の小指は真っ青だった。
ノブからの参入戦は諦めろというメールに対して『なめんな!』と返したそうだ。
練習後、昨日来れなかった同じく第2、第3腰椎横突起骨折と診断されたタケシに電話してみた。
『痛みがひいたらやります、参入戦には間に合わせますから。』と。
葛藤。
すごく頼もしい言葉だし、出来ればみんなを使って戦った方が勝つ為の手段を考えれば尚良い。
だけどその先何かあった時に責任は取れない。長い目で考えれば人生すら左右する。
気持ちに応えてあげたい部分と勝つ為の確立を上げたいのはもちろん。
多分今までの自分だったら彼等を使う。
きっと関東参入という手段の確立を自分は優先で考えてしまう。
だけど怪我で人生が変わった人を一番良く知っているのは誰でもなく自分だった。
私は前にも書いたけど小学校2年生でサッカーを始め、毎週月曜日だけが休みというサッカー尽くしの小学生生活を送っていた。
当時はゆとり世代ではなくそれはそれは厳しい練習ばかりで自分を追い込んだ。
母親は何度も止めればと言った。
だけど逃げるようで嫌だった。
だから走り続けた。
お陰で身体は小さかったけど走れる選手で町のマラソンや校内マラソンでは1位、2位は常に取っていた。
短距離でも校内の指定生徒に選ばれた。
技術はそれほど無いけれど小さい身体で良く走ると言われていた。
でも小学校6年の時に足の大腿骨に違和感を覚えはじめた。
最初の診断では異常無し。
だからまだ練習を続けた。
夏の読売ランドを目指す全日本少年サッカー大会群馬県予選。
試合中に急に走れなくなった。
気付いたら足を引きずって動けない。
途中欠場。
再び医師の診断を受けると『大腿骨骨頭滑り症』。
成長期前の過度な足への負担が原因だった。
小学校6年生にして手術。
栃木県下野市の自治医科大学病院に3ヶ月入院。
1年間マツバ杖生活。
母親は無理を止められなかった自分の責任と言って泣いた。
車で2時間もかかる病院なのに毎日お見舞いに来た。
初めて母親の涙を見たのはこの時だった。
医者からは3年間の運動を止められた。
中学3年間は体育の成績は2。
サッカーから離れた部活に属し、しかもただ見ているだけ。
そして中学3年で再び手術し入院。
高校に入って軽度の運動は許されたがもう気持ちが腐っていた。
その子のサッカー人生は小学校6年生で終わった。
今となっては後悔は自分自身無いけれど母親の初めての涙だけは今も忘れられない。
周りの親にも『なんで途中で止めさせなかったの?』と言われた事も自分の息子にメスを入れる事になってしまった事も母親は色々と自分を責めたらしい。
そんな事になって泣きたいのは俺だったけど泣くと更に母親が泣くのが辛くて耐えてた。
親父も『手術なんてさせてたまるか!』と俺を背負って病院、整体、針、色々な療法を試みる為に走り回ってくれたが結局ダメだった。
自分には後悔が無いけれど親父の気持ちに応えられなかった事は残念だ。
最後は一人でトイレにも行けなくなって諦めて手術になったからね。
今自分も親になって気持ちが分かる。
最後は選手の気持ちに任せたいと思う。
無理をしてでもなんとか頼むとは言えない。
きっと戦える選手だけでも結果を出せる!
みんなを信じて自分の気持ちを整理してみんなで勝ち取ろう。
初戦まであと9日。
satoshi_f at 11:16│Comments(3)│OHRA活動記事
この記事へのコメント
1. Posted by なおや February 09, 2011 17:29
俺はやりますよ。
いつ競技人生が終わるかわからない職業なんで。
いつ競技人生が終わるかわからない職業なんで。
2. Posted by たけし February 10, 2011 18:02
ヤル気満々〜!
3. Posted by GM February 15, 2011 13:40
ナオヤ、タケシ、頼もしいけど最後は自分の判断に任せる。